2009年06月22日

ユートピア(utopia、理想郷)はイギリスの

ユートピア(utopia、理想郷)は、イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作、また同書に出てくる国家の名前。「無可有郷」とも。

ユートピアは現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであった。

ギリシア語のοὐ ou(ない)、τόπος topos(場所)を組み合わせ「どこにもない場所」を意図とした地名と説明されることが多いが、記述の中では"Eutopia"としている部分もあることから、eu-(良い)と言う接頭語もかけて「すばらしく良いがどこにもない場所」を意味するものであったとみられている。

ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代の庶民が素朴に「理想郷」としてイメージされるユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩が強いためである

モアの著作の正式名称は、De Optimo Reipublicae Statu deque Nova Insula Utopia(『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』)という。

その内容は、

第1巻
第2巻、
「手紙」
の3部で構成され、「第1巻」はユートピアに行った男の話、「第2巻」は作者によるユートピアの様子のまとめ、そして「手紙」は作者がある友人に送った私信という体裁を取る。「手紙」では、ユートピアについて作者がこれまでまとめたことへの違和感と共に、友人に対しユートピアへ行った男に連絡して真意を問いただして欲しいと依頼して終わっている(これは、岩波文庫版(ISBN 4003220218)の解説によれば、この話がフィクションであることの強調と共に現実社会の批判を和らげる意図があったという)。
ライフセービング
信用取引
バドミントン
インフルエンザ脳症
ダーツ
ビタミン
近代オリンピック
カロリー
ホームシアター
脳神経外科
ご当地群馬情報
ボクサー情報
日本の正月
ご当地鹿児島
花木・庭木の気持ち
ご当地山梨
フルーツ王国
ご当地静岡
番茶百科
日サロ体験

ユートピアは500マイル×200マイルの巨大な三日月型の島にある。元は大陸につながっていたが、建国者ユートパス1世によって切断され、孤島となった。島の中の川はすべて改造されまっすぐな水路とされ島を一周しており、その中にさらに島がある。この、海と川で二重に外界から守られた島がユートピア本土である。ユートピアには54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されている。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる。首都はアーモロートという。

ユートピアでの生活は、モアより数世紀後の概念である共産主義思想が提示した理想像を想起させる。住民はみな白くて美しい清潔な衣装を着け、財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑され、後述する奴隷の足輪に使用されている)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究を行うとしている。

しかし、実際には着る衣装や食事や就寝の時間割まで細かく規定され、市民は安全を守る為相互に監視しあい、社会になじめないはぐれ者は奴隷にされるなど、現在の視点から見れば理想郷どころかディストピア(逆理想郷)とさえ言える内容となっている。そして実在した(する)共産・社会主義国の実像そのままである。

2009年06月05日

蘆名(あしな)氏は、桓武平氏系統の三浦氏から

蘆名(あしな)氏は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族で、蘆名(現在横須賀市芦名)の地名に由来する。「芦名氏」、「葦名氏」と表記される事もある。 相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する。通し字は前者は「為」、後者は「盛」。

三浦義継の三男・為清が蘆名姓を名乗ったことに始まる。孫の石田為久は木曾義仲を討ち取り、褒章として近江国石田村を与えられ、一族は同地に移住した。その後、下毛野流石田氏と婚姻を重ねて京極氏の被官となり、戦国時代には石田三成を輩出(石田三成が、名門蘆名氏の流れを自称した可能性もある)した。また、鎌倉時代中期には蘆名経光が伯耆守護となっている。

三浦義明の七男・佐原義連を初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の孫に当たる光盛の代になってからである(異説あり)。 室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。

戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ最盛期を迎えた。これにより、奥州で伊達氏と並び称される奥州を代表する有力大名にまでのし上がったのである。

しかし、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため1580年、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。
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盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。1584年に近従の大庭三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も1586年に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。盛氏の死から10年を経ずして3人もの当主が入れ替わったことは、蘆名氏の衰微を象徴するものであった。

1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易、次いで佐竹家臣として出羽角館城に1万6000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は名実ともに滅亡した。

なお、蘆名家の一門であった針生氏は蘆名家滅亡後に伊達氏に仕え、この系統は延宝4年(1676年)に仙台藩主・伊達綱村の命により蘆名に改姓した。

2009年05月02日

資源としての利用

生態学者と環境保護主義者は、生物多様性の保全に関して、まず始めに経済的な側面から議論を行った。

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経済的な価値を持つ製品(食品・薬品・化粧品など)を生み出す資源の供給源として生物多様性は重要である。この生物資源管理という概念は、生物多様性の衰退に伴う資源喪失の危惧と関連してくる。生物多様性を資源とみなす考え方は、天然資源の分配・割当のルールに関する新しい衝突を引き起こす元にもなっている。

生物多様性が持つ経済的な価値の推定は、生物多様性の分布について議論するために必要な前提条件となる。その議論の終着点は、環境保全に対して財政的支援を行う決定を伴う必要がある。

多様性を持つ生物群という意味において、以下の項目で生物多様性(≒生物資源)は利益をもたらす。

食品
人間への飲食物の提供。食用に用いられる陸生動物には、脊椎動物・昆虫類(昆虫食)がある。海洋生物については、魚をはじめ多様な種が食用に用いられている(例:甲殻類・軟体動物・藻類)。その他、食用になる陸生生物として、穀類や野菜などの種子植物、シダ植物、およびキノコ(菌類)などがある。また、菌類の一部(酵母、コウジカビ)や真正細菌の一部(酢酸菌・乳酸菌・納豆菌)などは、発酵食品の製造に用いられている。
薬品
直接的あるいは間接的に、生物資源に由来する薬品は多い。しかしながら、多様な植物の中で、新薬の供給源となる可能性について徹底的に調査が行われたのは少数にすぎない。抗生物質や産業用酵素は、生物を利用して作られている。
工業原料
広範囲の工業原料は生物資源から由来する。これらは建築材料、繊維、染料、天然樹脂、接着剤、ゴム、および油脂を含む。より広範に生物の多様性を継続的に調査していくことは、利用可能な素材を増加させる莫大な可能性を持つ。
レジャー、文化、および芸術的な価値
田舎で散歩を楽しむこと、野鳥観察、テレビの自然史番組の視聴といったレジャー活動を通して、生物多様性から人類は恩恵を受けている。音楽家、画家、彫刻家、作家、および他の芸術家といった人々は、生物多様性に触発されることがある。自分たちが自然界に統合されている一部であるとみなし、他の生物に敬意を払っている文化的な集団も多い。
その他の生態系サービス
生物多様性は人類が当然のこととして享受している生態系サービスを供給している。生物は、大気と水の供給において化学的制御の一端を担っている。また、栄養物の循環や、肥沃な土を供給するのにも関与している。環境制御実験によって、人為的な生態系は簡単には構築できないことが判明した

2009年04月18日

日本の狩猟人口

日本の狩猟人口は年々減少しつつある。1979年に45万だった狩猟人口は1995年には25万、2007年時点で16万程度である。2007年12月に起きたルネサンス佐世保散弾銃乱射事件の際にはマスコミによる過剰報道により「日本はすでにアメリカ合衆国に匹敵する銃社会になった」などと騒がれた。全国に30万丁の許可銃があることと、最近の若い世代は精神面で以前より劣悪になっているなどという理由からである。

しかしこれは飛躍しすぎた話であり、マスメディアの調査不足である。データなどからも分かるように、日本におけるハンターは高齢化している。30万の銃も、世界に比較すれば非常に少ない流通数であり、日本同様厳しい銃規制を持つイギリスは日本の半分の人口にも関わらず、500万丁の銃が出回っている。さらに、近年の日本の若年層の犯罪者数は1960年代、1970年代と比較して著しく減少しており、若者が凶悪化しているというのも誤りである。

このことから、有害鳥獣の被害に苦しめられている県では、狩猟期間の延長や面接の基準を緩くしていたところもあった。銃刀法は全国共通でも許可の基準には自治体によって差異があり、都市部ではしつこく面接官に逃げられるような対応をされることも多い(しつこく説得される:アテネ五輪代表の女子選手は神奈川県で許可をもらうのは大変だといっていた) が、自然が身近にある地方では簡単に許可が出る自治体も多い。

北海道などは、エゾシカ・ヒグマに代表される「野生動物による農作物被害」に苦しめられており、一時は若手ハンターの育成やライフル銃の所持条件を許可証取得後5年になどの「銃規制緩和論」もみられた。しかし、佐世保の事件の影響からこの緩和傾向はストップすると思われる。 しかし、北海道では依然としてライフル銃の所持条件の緩和や毒薬の使用、狩猟期間の延長といった鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律の規制緩和を求める声が根強く存在する。

ハンター不足を解消するため、北海道の西興部村など、指導者付きで若者などに狩猟体験ツアーを行っているところもある。

日本国内で狩猟許可されている鳥獣
鳥類29種
ゴイサギ、マガモ、カルガモ、コガモ、ヨシガモ、ヒドリガモ、オナガガモ、ハシビロガモ、ホシハジロ、キンクロハジロ、スズガモ、クロガモ、エゾライチョウ、ウズラ、ヤマドリ(コシジロヤマドリを除く)、キジ、コジュケイ、バン、ヤマシギ、タシギ、キジバト、ヒヨドリ、ニュウナイスズメ、スズメ、ムクドリ、ミヤマガラス、ハシボソガラス、ハシブトガラス、カワウ(平成19年度より追加)
獣類20種
タヌキ、キツネ、ノイヌ、ノネコ、テン(ツシマテンを除く)、イタチ(オスに限る)、チョウセンイタチ(オスに限る)、ミンク、アナグマ、アライグマ、ヒグマ、ツキノワグマ、ハクビシン、イノシシ、ニホンジカ、タイワンリス、シマリス、ヌートリア、ユキウサギ、ノウサギ

日本国内で許可されている法定猟具 [編集]

むそう網、はり網、つき網、なげ網
わな
くくりわな、はこわな、はこおとし、囲いわな
銃器
散弾銃、ライフル銃、空気銃
フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

日本の法律で禁止されている狩猟道具
とらばさみ(法改正に伴い、平成19年4月16日から使用不可)
つりばり
とりもち
弓矢
ボウガンで鳥獣を撃つ行為は鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律に違反する。これはボウガンを構えて狙っただけでも犯罪行為となる。
爆薬
毒薬
キジ笛
音響機器
危険な罠
危険な落とし穴
犬に咬み付かせて捕ること
禁止されているのは「犬に咬みつかせることのみにより捕獲等する方法又は犬に咬みつかせて狩猟鳥獣の動きを止め若しくは鈍らせ、法定猟具以外の方法により捕獲 等すること」であり、犬以外の動物に捕らせる事は禁止されていない(補足すると、銃猟免許を所持した者が、猟銃を携えた状態で、猟期中に、狩猟鳥獣を、「犬に咬み付かせて捕ること」は禁止されていない。本来、免許を所有しないで行える狩猟行為を禁止するために出てきた禁止事項?)。例えば、鷹狩りに関して、それを違法とする法的根拠は存在しない。

自由猟具
法定猟具でもなく使用を禁止されてもいない道具を「自由猟具」と呼ぶ。例えば鷹狩は法律上では鷹を自由猟具として使用する狩猟となる。スリングショットも法令に書かれていないので、スリングショットを利用した狩猟も国内で可能である。ただし、狩猟に関する法令には違反しなくても、自治体によってはスリングショットの所持自体が禁止されている場合もあるので注意が必要である。

厳密には「素手で捕まえる」「石を投げる」などの行為も自由猟具による狩猟と見なされる。当然、素手でも期間や数などの法規を守らなければ違法行為である。

世界各国の狩猟人口
米国:1500万(人口約2億7千万)
フランス:160万(人口約6000万)
スペイン:40万(人口約4000万)
ポーランド:10万(人口約3000万)
フィンランド:30万(人口約500万)
ドイツ:30万(人口約8000万)

関連項目
狩猟免許
猟友会
鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律
生態系
電波法(アマチュア無線#ルールを守らない運用の問題)
猟犬
クレー射撃
絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)
狩猟採集社会
サファリ
密猟
生類憐れみの令
ラムサール条約
鷹狩
ジビエ
戸板落とし(日本の猟具)

2009年04月03日

舞の海秀平

舞の海 秀平(まいのうみ しゅうへい、本名:長尾 秀平〔ながおしゅうへい〕、1968年2月17日 - )は、青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町出身の元大相撲力士(最高位は小結)。現在は大相撲解説者、スポーツコメンテーター、タレント、俳優など様々な分野で活躍しており、芸名も舞の海としている。身長170cm、体重88kg[1]。血液型B型。左利き。

小兵力士の代表格であり、関取時代は「技のデパート」(旭鷲山昇入幕後は「技のデパート・本店」とも呼ばれた)の異名で親しまれた。愛称は舞ちゃん、シュウヘイ。

故郷は日本海に面した天然の良港であり、「舞の海」の四股名および現芸名の由来となっている。

鰺ヶ沢第一中学校、木造高校、日本大学では相撲部で活躍。小柄なため一旦は大相撲入りを諦め、山形県の高校教員採用試験に合格していたが、大学在学時の同郷の後輩である成田の急死を契機として大相撲入りを志す。しかし、身長が当時約168cmで日本相撲協会の規定に達しなかった為、手術でシリコーンを頭に埋めて身長を高くした(後述)。
しょうや ムンバ イルラ 永遠の約束 ブースター サルフ 享禄 きんちゃく パンダル マネタリ アップ アート フラゲ ニュース 星かげ 月の宮 スタジ 野の花 リミット トラック 日本海 ケーソ ブラワサ じょうるり レビュー 未来世紀 ビッドレ オーバ ストーンカメ 女峰 ブッファ シャリン セイシェル ファイ シング スチーム ティグ バトル ストップ レーダー オーパーツ ブイエ デデリ ギブアップ ピラー 時計台 タネソウ サーチカヤ タイミ レジュ

出羽海部屋に入門後、1990年5月場所に幕下付出で初土俵。この場所で6勝1敗の好成績を収め、13日目の取組で唯一6戦全勝だった栃天晃が星違いの琴の若に敗れた為、1敗力士8人による幕下優勝決定戦に出場した(準決勝で、優勝した林に敗れた)。

関取に昇進し四股名を「長尾」から「舞の海」へと改名した後は、その相撲センスと100kgにも満たない小柄な体格を活かし、多彩な技で大型力士を倒すその取り口から「技のデパート」・「平成の牛若丸」という異名を得て人気力士となる。「猫騙し」の活用に始まり、「後退する立合い」、「くるくる舞の海」と言われた目回し作戦、1991年11月場所の曙戦でみせた「三所攻め」、1992年1月場所の貴闘力戦でみせた「居反り・襷反り」(技は成功せず)、当時の二子山理事長に「八艘跳び」と言わしめた1992年1月場所・北勝鬨戦での立合いジャンプ作戦など、まさに四十八手を駆使した彼の異能ぶりは大相撲ファンを魅了し、1994年9月場所には小結に昇進。また通算では5度の技能賞を獲得している。

しかし1996年7月場所、小錦との体重差約200kgという取組で、舞の海は勝ったものの倒れ込んだ小錦の体重がまともに左膝へ圧し掛かり、「左膝内側側副靭帯損傷」の大怪我を負い、当場所・翌場所を休場し十両へ陥落。1997年5月場所に幕内復帰を果たしたものの上位陣と当たらない下位の位置に停滞し、幕内は1998年3月場所を最後に十両へ再陥落。それでも十両の地位で懸命に相撲を取り続けたものの、1999年11月場所には十両10枚目まで落ちていた。13日目の水戸泉戦で敗れた際に左足首靭帯を損傷、左ふくらはぎも肉離れを起こし14日目を休場、6勝8敗と窮地に追い込まれる。千秋楽(11月21日)は無理を押して出場するが、若光翔に敗れて幕下陥落が濃厚となり、現役を引退した。

親方株に丁度空きが無かった事もあり、引退後は日本相撲協会には残らず(1996年11月17日迄の呼称は「廃業」)タレントに転身。NHK・大相撲中継の専属解説のほか、スポーツコメンテーターとして、フジテレビ系「FNNスーパーニュース」のスポーツキャスター(木曜日、金曜日)なども担当。各種講演や俳優活動も行っている。

2000年、2001年には帝京大学の非常勤講師も務め、かつての夢でもあった教育の仕事にも携わっている。

主な成績 [編集]
通算成績:385勝418敗27休 勝率.479
幕内成績:241勝287敗12休 勝率.456
幕内在位:36場所
三賞:技能賞5回

エピソード [編集]

現役力士時代 [編集]
大相撲入門当時は5歳以上も年下の兄弟子から稽古で扱かれるだけでなく、陰湿ないじめも受けたという。また、1994年に相撲で左の上腕二頭筋を傷め、以降下手投げが出来なくなったことは引退まで完全な秘密とされていた。
新十両となった1991年1月場所の初日、宿舎から大阪府立体育会館までの道程で大渋滞に見舞われ、土俵入りに間に合わなかった。幸い取組にはぎりぎり間に合い、剣晃をすくい投げで破った。
「立合いで両者が頭でぶつかり、前に攻める」のが一般的な相撲の流れであり、親方もそのような相撲を弟子に指導する。だが、当時の出羽海部屋親方である佐田の山は、舞の海にだけは「技は何をしても良い。好きなようにやれ」と許しを出し、立合いのぶつかりも強要しなかった。実際の取組でも、対戦相手がその業師ぶりを警戒するあまり、立合いで両者ぶつからず、近年では非常に稀である「手四つ」の体勢になるなど、流れの中でもボクシングのように双方離れて牽制しあうような展開が時折見られた。一方で、軽量を突かれて立合い一気に押されて敗れる相撲も多かった。
現役時代最も思い出に残る一番として、1991年11月場所の曙戦を挙げている。立合いの突きをしゃがんで避け、腰に食らいつき、内掛けを狙うまでは作戦通り。それでも曙は倒れないため、もう一方の足を足取りで攻め、最後には頭で相手の腹を押す「三所攻め」でようやく曙を転がす事が出来たという(なお、決まり手は「内掛け」となった)。また、「平成の牛若丸対弁慶」とも称された1992年3月場所での武蔵丸戦でも、腰に食らいつき外掛けと足取りを併用した攻めで勝利している(決まり手は「外掛け」)。

シリコン注入手術 [編集]
1990年当時、新弟子検査に合格するには規定で173cmの身長が必要であった。身長の足りない舞の海はまず1990年の3月場所前新弟子検査において、すき油を頭の上に固めて乗せ、これを頭髪で隠して検査に臨んだが、気温で油が溶け出してしまい、不合格となる。

次回の5月場所前新弟子検査に向け、舞の海はシリコンを頭に埋め込んで身長を誤魔化す事を決断する。このシリコン注入は頭皮を頭蓋骨から剥がして袋を入れ、その袋にシリコンを少しずつ1ヶ月掛けて注入していく手術で、この処置を施している期間は瞼が閉じられない程に顔の皮が引き附けられ、また激しい痛みで十分な睡眠も取れない厳しい状態だったという。新弟子検査合格後にすぐシリコンは抜き取ったが、本場所が近かったため袋の除去手術は場所後になった。

以後、同じ方法を施した新弟子検査受験者が数人現れたが、健康上の理由でこの方法を用いることは禁止された。その代わり、幕下付出資格者は体格不問となったり、「第二新弟子検査」が創設されたりと(規定身長を167cm以上に引き下げ)、小柄な力士志望者への門戸拡大につながった(2007年5月場所、2008年7月場所、2009年1月場所小結、2008年9月場所関脇になった豊ノ島に門戸を開いたのは舞の海の功績とも言われる=豊ノ島は「第二新弟子検査」から入門の初の関取・小結・関脇である)。

なお、舞の海以前にも大受(元大関、現朝日山親方)がシリコンを埋め込んで新弟子検査を受けた例がある。

解説者・キャスターとして [編集]
NHK大相撲中継の解説では、自身の相撲経験だけに頼らない、取材やデータも基にした論理的かつ率直な解説を行う。また、正面解説:北の富士、向正面解説:舞の海というペアの解説になることも多いが、「子供の頃から親方のファンで、北の富士と聞いただけでつい話し掛けちゃうんです。」などと語るように、放送中に向正面から直接北の富士へ質問や相撲談義、世間話を持ち掛ける事が時折ある。大相撲解説者が解説者に話し掛けるというのは、舞の海以外では殆どみられない。この2人にアナウンサーの藤井康生を加えた3人による放送体制は「ゴールデントリオ」「漫才トリオ」などと称され、大相撲中継名物の1つにもなっている。現役時代の自身の取り口から小兵力士の立ち合い変化を肯定する論調が多い。
現在はキャスターの他、トリノオリンピック、北京オリンピックの現地リポーター等も務めるが、リポーター・キャスターとしてはテンションが低すぎることを悩んでいる。[要出典]
2009年初場所前に進退問題の渦中にあった横綱朝青龍の出羽海部屋での稽古を見学したが、その帰りに「まだ引退しないでくださいね」と声を掛けると、神経質になっていた朝青龍から「顔じゃないよ」(角界独特の言葉で分不相応である、の意。舞の海の現役時の最高位が小結であるからか)と罵られてしまった。[3]
これに関連した余談もある。同年春場所13日目に大相撲中継の解説に座った際、同じく解説だった武隈親方(元関脇黒姫山)が、新関脇だった稀勢の里の不甲斐ない相撲を見て、「舞の海さんも言われたね」と前置きした上で、稀勢の里を「こういう力士に言う言葉がある。『顔じゃない』」と(期待をしているからこそ)酷評した。

人物・その他 [編集]
2004年には素敵なお父さんとされた著名人に贈られる賞、ベスト・ファーザー イエローリボン賞を受賞した。
故郷鰺ヶ沢町には、海の駅わんど2階に「鰺ヶ沢相撲館<舞の海ふるさと桟敷>」がある。
2007年福島県で行われた講演会での講演の際に、朝青龍は間違いなく仮病だと思う。「私は北の富士さんと競ってるんですよ」などと述べていた。[要出典]
プロ野球楽天イーグルスファンクラブ名誉会員(会員No.9)。
謙虚な性格のせいか、旅チャンネルの番組で、とある男性に自分を名乗るとき「実は僕はかつて相撲の世界におりまして…」と言ったら「もちろん!知ってますよ!何言ってるんですか舞の海関」と返され、照れていた模様が放送された。

2009年03月19日

三大ピラミッド

三大ピラミッド(さんだいピラミッド)とは、エジプト、ギザの砂漠にある3基のピラミッドの総称。被葬者は、古代エジプトのファラオであるクフ王、カフラー王、メンカウラー王とされる。また、スフィンクスも三大ピラミッドに隣接している。メンフィスとその墓地遺跡として世界遺産に登録されている。

クフ王のピラミッド
クフ王のものとされるピラミッドは、三大ピラミッドの中で最大で、高さ146.6m(現在の高さ138.8m)である。1954年、付近から長さが43m以上ある木製の「太陽の船(クフ王の船)(Khufu ship)」が分解された状態で発掘された。


カフラー王のピラミッド [編集]
詳細はカフラー王のピラミッドを参照

カフラー王のものとされるピラミッドは、三大ピラミッドのうち中央に位置する。高さはおよそ136メートル(頂上部分が一部崩れているため、創建当時より低くなっている)。頂上付近に創建当時の化粧石が一部残っている。見かけ上、三大ピラミッドの中でもっとも高いように見えるが、それはカフラー王のピラミッドが立っている岩盤が、クフ王のそれに比べてやや高くなっているためで、実際はクフ王のピラミッドの方が高い。
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メンカウラー王のピラミッド [編集]
詳細はメンカウラー王のピラミッドを参照

メンカウラー王のものとされるピラミッドは、三大ピラミッドの中ではもっとも小さい。高さおよそ65メートル。北面には大きな傷跡が残るが、これはピラミッドを破壊しようとしたものが破壊できずに終わったものの名残であるという。


オリオン説 [編集]
この三大ピラミッドはオリオン座の三ツ星を表したものであるとする説。実際に三ツ星と三大ピラミッドを重ねるとその配置が一致するという。ロバート・ボーヴァルとアドリアン・ギルバートが提唱し、グラハム・ハンコックもこの説を取りいれたが、正統なエジプト考古学の研究者たちからは無視されている。


ナポレオンのエピソード [編集]
ナポレオン・ボナパルトがエジプトに遠征した折、ピラミッドの下で「兵士諸君、ピラミッドの頂から、四千年の歴史が諸君を見つめている」と言って兵士達を鼓舞したとされる。

2009年03月04日

米国政府に取り入り、極秘のミュータント根絶計画

バスチオン (Bastion)
米国政府に取り入り、極秘のミュータント根絶計画(オペレーション・ゼロ・トレランス)を指揮する謎の人物。ミュータントハンターロボット・センチネルの軍団を操り、X-メンを壊滅寸前に追い込んだ。その正体はセンチネルの王、マスターモールド (Master Mold) であった。
オンスロート (Onslaught)
人類に絶望したプロフェッサーXの暗黒面が、マグニートーのパワーと合体して生まれた最強最悪の魔人。プロフェッサーXを取り込み、彼の精神操作能力、そしてマグニートーの磁力操作能力を持つ。さらにファンタスティック・フォーのリード・リチャーズとスー・リチャーズの息子で、最強のミュータントになると言われているフランクリン・リチャーズの能力を取り込こんだことで現実改変能力も手に入れた。そのため地球で生まれた最初のコズミックビーイング(宇宙的存在=ギャラクタスやリビングトリビューナルのような、宇宙を律する神に等しい存在)と呼ばれた。地球とマーベル世界の全ヒーローを巻き込んだ巨大災厄を引き起こした。日本ではゲームの出演で有名(テレビアニメ、映画には未登場)。
マツオ・ツラヤバ (Matsu'o Tsurayaba)
歴史ある忍者集団ザ・ハンドの首領で、日本人。ミュータントではないがミュータント能力に匹敵するほどの数々の殺人技と超人的な技を会得しており、世界中で暗躍している。普段はビジネスマンとして行動しており、配下の下忍は伝統的な忍者服にもかかわらず、本人はコスチュームも常に背広とコート姿。ちなみに、制作サイドは本当は「ツブラヤ(円谷英二からか?)」と命名したかったらしいが、間違ってツラヤバという不思議な名前になったといわれる。漢字にすると「連刃」となるという説がある。
ストライフ (Stryfe)
未来世界から来た強力なミュータント。2000年先の未来でケーブルの臓器移植のためにつくられたクローンだったが、アポカリプスに奪われて育てられる。アポカリプスを撃退し、ミスター・シニスターに一杯食わせたこともある。プロフェッサーXがケーブルに狙撃され機械化ウイルスに感染するという事件(「エクスキューショナーズ・ソング」事件)があったが、実はストライフの仕業であった。彼自身はケーブルではなく自分のほうがオリジナルと思っていた。自分の遺伝子上の親であるサイクロップスとジーンを、自分を捨てたと認識しており、二人を激しく憎んでいる。また、自分がケーブルのためにつくられた補欠であることをプライドが許さないのか、ケーブルのことも非常に憎んでいる。ケーブルとは異なり、テクノウィルスに余分な能力を割くことも必要ないため「ケーブルの完全体」とも言える非常に強力なミュータント能力を持ち、ジーングレイの能力をいとも簡単に押さえつつアポカリプスを半殺しにする。ケーブルとの決闘に敗れるが、死ぬ前に残した遺産(レガシー)である「レガシーウイルス」は、その後多くの犠牲者を出すことになる負の遺産となった。
オメガレッド(本名:アルケイディ・ロッソビッチ) (Omega Red)
冷戦時代に、ウルヴァリンやキャプテン・アメリカといった西側諸国の超人兵士に対抗して作られたソビエト連邦の超人兵士。周囲の人間の生命力を吸い取るフェロモン「デス・ファクター」を発することができるが、それを安定させるために不可欠な装置「カーボナディウム・シンセサイザー」をウルヴァリン、セイバートゥース、マーヴェリック (Agent Zero) の3人に奪われて制御不能となったため、その後30年以上の間封印されることになる(マツオ・ツラヤバによって封印を解かれる)。そのため、前述の3人を特に恨んでいる。両手首に埋め込まれた超金属の鞭「カーボナディウム・コイル」が武器。ガンビットに「ポニーテールの悪党」呼ばわりされる。日本ではテレビアニメとゲームの出演で有名(映画には未登場)。

映画
「X-MEN」シリーズ
X-メン X-MEN (2000年)
監督:ブライアン・シンガー / 出演:ヒュー・ジャックマン、パトリック・スチュワート 他
X-MEN2 X2 (2003年)
監督:ブライアン・シンガー / 出演:パトリック・スチュワート、ヒュー・ジャックマン 他
X-MEN:ファイナル ディシジョン X-Men: The Last Stand (2006年)
監督:ブレット・ラトナー / 出演:ヒュー・ジャックマン、ハル・ベリー 他
ノーメーク ジェルカン かじぼう スリナ ひこぼ ビオトープ マイクナキ フルーツ カラー ロッキー スイン ナナカマ けいは でんと ノクラス あみだ ジャン ストーン いかりがせ ハーモニー オーリ シングル キッザニ ガポド キック ヤード ダン アップテロ トリガー タフタ ムチン キューテ タイゲーム ハーフアド ききょう リズム でんでん イーグル ディルド オーラオン スケート ラッシ フルート 時の舟 セラック キープ モノクロ デリック フリーラ ブラック

スピンオフ作品
ウルヴァリン Wolverine
現在製作中。ヒュー・ジャックマン主演が決まっており、脚本はデイヴィッド・ベニオフによるものが完成している。監督はアカデミー外国語映画賞を受賞した『ツォツィ』のギャビン・フッド。2009年公開予定。
マグニートー Magneto
現在企画中。マグニートーの若き日を描く。監督はデヴィッド・S・ゴイヤー(『ブレイド3』監督、『バットマン ビギンズ』脚本)。

2009年02月13日

Quartett!

コンクール開催まで、あと84日―。
ブロース フィンガ チボウ ハロゲン アゴニスト リバタ シェル ハーフ あまおう スカム シャーク ステコミ ジャブ ブレー スリー フィッシュ ポプラ ロユリ ランブル さとち マリン マンディー プラク ヒール ルノー リスト ドオオ ヒット ダンス にしなり ブール マレー ビアン ハイタッチ デッキ エイド タグ最強 ホップ ラッチ サブリ ジェイリ タバスコ ワンダン ステーキ 恋人たち プレス オフィス レイシズ とまや バージャケ

見習い楽器職人である「フィル・ユンハース」はひょんなことから音楽の名門、「マグノリア音楽院」に編入する事になる。どこか人をひきつけるヴァイオリンを弾くフィルは、ここで3人の女の子とカルテットを組み、学期末に行われるコンクールへの出場を目指す事になる。

フィル・ユンハース(声:櫻井孝宏)

カルテット内では第2ヴァイオリン担当。病気で倒れた祖父の代わりにミサでバイオリンを弾いているところがクラリサの目に止まり、マグノリア音楽院に編入する事になる。クラシックの正式な教育は受けていないが、その演奏はどこか人をひきつける。

ヒロイン
シャルロット・フランシア(声:清水愛)

フィルが入ったカルテットの第1ヴァイオリン担当で、カルテットのリーダー的存在。真面目な反面、気が強い一面もある。かつて「神童」と呼ばれ、幼い頃からコンクールなどで優秀な成績を修めてきた。136cmと低いその身長がコンプレックスのため、恋愛関係は苦手。
ユニ・アルジャーノ(声:新谷良子)

カルテットではヴィオラ担当。イタリア出身。陽気なムードメーカーで、どこか変わった印象の女の子。メイの双子の姉。奇妙な言動が多く、いたずら好きである。過去にある事情からヴァイオリンからヴィオラに転向したのだが、それがコンプレックスとなっている。
李・淑花(リ・スウファ)(声:生天目仁美)

カルテットのチェロ担当。物静かでおとなしい雰囲気の華人系の女の子。照れ屋で口数は少なく、引っ込み思案だが優しいところもある。複雑な家庭環境で育てられたために、やや人間不信のきらいがある。

サブキャラクター
リーナ・ユンハース(声:広橋涼)

フィルの妹。どこか抜けている兄とは対照的にしっかりしている。その一方でませている一面も。
メイ・アルジャーノ(声:池澤春菜)

ユニの双子の妹。フィル達のカルテットのライバルカルテットの第1ヴァイオリン担当。音楽院屈指の才能と実力を持つ。ユニのことを溺愛しており、近づく悪い虫(主にフィル)に対しては非常に厳しい態度を取る。
ハンス・クラウバー(声:下野紘)

ライバルカルテットの第2ヴァイオリン担当。自分が才能のない凡人であることを自覚しており、それでもメイたちに追いつこうと頑張る静かな努力家。
ジゼル・シュトルツェンベルク(声:沢城みゆき)

ライバルカルテットのチェロ担当。大富豪の令嬢で、世間知らずで思い込みが激しい。
シニーナ・ビノテーク(声:浅川悠)

ライバルカルテットのヴィオラ担当。苦労人であり、学校に通いながらカフェで働く苦学生。姉御肌。
クラリサ・フリューゲル(声:友永朱音)

マグノリア音楽院の教師。フィルを学院に引き込んだ張本人。既成の概念にとらわれない自由人。学院きっての変人教師でもある。
ソフィ・マイヤー(声:浅野真澄)

シャルロット達のカルテットの元メンバー。家庭の事情から学院から去ることになる。実力はシャルと肩を並べるほど高い。
多くのクラシック音楽を主題とした創作物は、リサーチが足らずに妄想の域を出ないものが多い。しかし、この作品では実際に作中のイヴェントに近い事件が起きている。例えば合宿のシーンは、第二回チャイコフスキー・コンクール等の旧ソ連勢の出場者向け強化合宿を参照していることが解る。国際コンクールにあからさまに中国人が運営や取引に関る事も、何ら不自然ではない。最後のヴァイオリンを巡る老人のイヴェントに至っては、恐らくは芸大事件を参照しているものと思われる。途中から演奏を聴くマナーの極めて悪い審査員も、事実存在する。

2009年01月27日

黒井城の戦い(くろいじょうのたたかい)

黒井城の戦い(くろいじょうのたたかい)は、織田信長の命をうけた明智光秀等が天正3年(1575年)と天正7年(1579年)の二度に渡って丹波国征討を目的に、赤井氏の堅城黒井城への攻城戦が行われた。

元亀元年(1570年)3月、上洛していた織田信長に赤井直正(この時は改姓し荻野直正と名乗っていた)と赤井忠家(赤井直正の兄赤井家清は亡くなり、赤井忠家は赤井家清の嫡男)は拝謁し織田方につくことを約束した。織田信長はこれに対して氷上郡、天田郡、何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した。これで丹波国は安定するかに思えたが翌元亀2年(1571年)11月、
ヨツバ コルヒチ モネ しおざけ ネルガ ポッド あめりか フレーズ めいわ ラッピ ビンカミン ハザード ソロモン サブライ イシミカ ナシ ティング トラス プライス インチ ネオン コスト ミラショーン レコード カカオマス 白い微笑 ハンドメイド チェンジ Sロガー レンディー パネル 霜の花 レモン テレワ スター ラオオ チュニス ナビラメ きょくし ぽろり モデラート レンジ はさま ハマメリス プログラ ルフィ アゲート フクジ トリッキー マツバ

此隅山城(出石町) 城主 山名祐豊
夜久野城(山東町) 城主 磯部豊直
らが、氷上郡にあった足立氏の山垣城(青垣町)を攻城した。黒井城の赤井直正と後屋城の赤井忠家はこの動きに即応し、山垣城に救援に向かい山名祐豊、磯部豊直両軍を撃退した。その後勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、次は山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫った。

このような状況になり山名祐豊は織田信長に援軍を要請したが、織田信長は当時信長包囲網にあい、援軍を出せる余裕はなかったが、越前一向一揆が一段落した天正3年(1575年)、明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになる。織田信長としてみれば、毛利元春を討つ前に京に近い丹波国を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと推察されている。

明智光秀は越前国より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと思われている。この時赤井直正は竹田城にいたが、明智光秀の動きを察知し黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。

織田信長は、同年10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいた。

明智光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲した。この時の状況を『八木豊信書状』によると「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と観測を述べ、スムーズに戦がすすんでいた。戦況は明智光秀に有利であり、攻城戦は2ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が3方向から攻め立て明智光秀軍は総退却となった。「赤井の呼び込み戦法」と言われている。

この戦いは、波多野秀治軍の裏切りにより勝敗がついたが、呼び込みという言い方は適切ではない。なぜこのような言い方が伝わったか『郷土の城ものがたり』では、織田信長の朱印状の返事をどのようするか、丹波国の国人衆が集まり協議を行い「赤井直正のみが織田信長の意向に従わない、他の国人衆は織田信長に従うので赤井直正を討ち滅ぼしてほしい」という偽りの返事をしたのではないかと解説している。『籾井家日記』によると、「赤井直正と波多野秀治の間には密約があり予定の行動であった」という記載があるが、『戦国合戦大辞典』によると「その記述は信用できるものではない」としている。『兵庫県の不思議事典』によると「赤井、波多野両家は姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性がささやかれてはいるものの、はっきりした記録はない」と記載している。
『甲陽軍鑑』によると「名高キ武士」として、

徳川家康
長宗我部元親
赤井直正
と並び紹介されているほどの武将である。赤井直正には、織田信長を丹波国に呼び込んで討ち取る計略があったのではという指摘もあるが、それらを示唆できる資料も確認されていない。

天正4年(1576年)1月15日、明智光秀軍は黒井城の前方(南側)にあたる「平松」という場所に移動し、

黒井城の東側 大路城 城主 波多野秀香軍
黒井城の西側 霧山城 城主 波多野秀尚軍
黒井城の北側 八上城 城主 波多野秀治軍
と黒井城の四方に陣取り、いよいよ黒井城を攻め立てるべく準備が整ったところに、三尾城城主赤井幸家(赤井直正の弟)が明智光秀軍に襲い掛かり、これに即応して波多野秀香軍と波多野秀尚軍が西、東より挟撃した。明智光秀軍は体制を整えるべく一旦柏原方面に退却しようとしたが、そこには高見城城主赤井忠家が待ち伏せており、明智光秀軍は黒井川に追いやられ大敗した。

このような戦いの状況から、いつの時点で密約が成立したかは定かではないが、なんらかの密約らしきものがあったのでないかと思われている。

戦後の状況
大敗した明智光秀軍は京に逃げ込み、その後坂本城に帰城した。先の戦いから1ヶ月後、再び戦の準備を整え同年2月18日に坂本城を出陣し丹波国に入国したが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまった。

波多野三兄弟による裏切で大敗し、自らの命も危なかった明智光秀の思いは、その後の八上城の攻城と波多野三兄弟の浄巌院慈恩寺の磔とも関係していると言われている。

一方、この戦いで織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていく。

第二次黒井城の戦いまでの経緯
再び明智光秀が黒井城を攻城するまで約1年半の月日が流れる。

この間明智光秀は畿内を転戦する。石山本願寺攻め、加賀攻め、信貴山城の戦いなど明智光秀軍は「遊撃軍団」だったと思われる。

赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていた。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者、跡部大炊助や長坂長閑斎、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っている。

特に石山本願寺からは、織田信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと思われている。また、赤井直正、赤井幸家兄弟は、吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。

この朱印状は4月13日、織田信長から矢野弥三郎に宛てた朱印状で、内容は「赤井忠家、赤井直正の罪を「赦免」(ゆるし)し、去年以来より織田方に「一味」した者の身上は異論なく扱い、「当知行」も安堵してするので、明智光秀と相談して益々忠節を尽くすよう」とある。矢野弥三郎はどのような人物か不明であるが丹波国の国人の一人ではないかと思われている。朱印状には4月13日とのみ書かれており年号については不明であるが、「明智光秀と相談して」という部分から推察して第一次黒井城の戦い-第二次黒井城の戦いの間、天正3年(1575年)-天正7年(1579年)と思われている。このように織田信長も第二次黒井城の戦いを前に計略を廻らしていた

吉川元春援軍が到着する前に、明智光秀軍は信貴山城の戦いが終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波国征討戦を開始する。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させた。この二城を丹波国征討戦の本拠地とした。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとった。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させる。

この時に赤井方では、主将である赤井直正が病没するという一大事件がおきる。同年3月9日のことであった。一説には、「首切り疔(化膿してできる腫れ物)」の病ではなかったかと言われている。数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった赤井直正の死去は丹波国に大きな影響を与えた。一旦は明智光秀を裏切った丹波国の国人衆は、二城が陥落し、赤井直正が死去、八上城を攻囲するのを見ると再び明智光秀に降っていった。赤井家では赤井直正の弟の赤井幸家が後見となり統率することになる。

更に織田信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、

山垣城
細工所城
栗住野城
田巻城
岩屋城
霧山城
等の八上城、黒井城の支城を次々と落城していった。明智光秀は攻囲中に、軍勢を八上城に置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処している。

翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城する。各支城を落城し、金山城の効果を出始めてきだしたのか、

同年5月5日 氷上城 落城
極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われている。

同年6月1日 八上城 落城
捕えられた波多野三兄弟は、明智光秀護送の元、洛中を引き回され安土城に出向き織田信長の命により磔になる。明智光秀は同年7月再び丹波国に入国し、最後の城、黒井城の攻城にとりかかる。

戦いの状況
赤井幸家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われる。

戦いは8月9日早朝開始された。明智光秀軍は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込んだ。仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いにのって追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりした。そんな中、明智光秀軍の四方田政孝隊が、手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けた。明智光秀軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず赤井幸家軍も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走する。この時の状況を『信長公記』では、

“ 八月九日赤井悪右衛門楯籠り候黒井へ取懸け、推し詰め候ところ、人数をだし候。則ち、口童(口+童)と付け入るに、外くるはまで込み入り、随分の者十余人討ち取るところ、種々降参候て、退出
と記載されている。
この書状は黒井城落城15日後の8月24日もので、戦勝祈願した京都の威徳院へ送ったものになる。内容は、勝利することができたので約束どおり200石を奉納すると伝えている。また、文中には赤井忠家の居城であったと思われている高見城がまもなく落城し、一両日中には和田方面に進軍すると報じている。神仏を重んじ生真面目な明智光秀の性格を伺わせる書状となっている。書状の中段に「高見之事、執詰陣候、」という記載が見受けられる。

上記書状のように若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、明智光秀、細川藤孝らは同年10月24日安土城に凱旋し、織田信長に拝謁し丹波国が平定できたことを報告する。

その翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになった。

逸話
第一次黒井城の戦いで、全国的に赤井直正の「丹波の赤鬼」で有名になるが、この赤鬼の赤は赤井直正と関係があると思われているが、『郷土の城ものがたり』はそれだけでなく、この頃より揃い鎧を着けて戦うことが始まっているので、おそらく赤井直正軍も揃いの赤い鎧を着用していたのではないかと推察している。
羽柴秀吉の家臣、龍野城の城主脇坂安治が、天正6年(1578年)1月病床にあった赤井直正を下館を訪ね、開城降伏を進言したが、この説得には応じなかった。しかしその好意に謝して「貂(てん)の皮」を与えた。この時の記述が司馬遼太郎の「貂の皮」という歴史小説に記載されている。この貂の皮は龍野神社の宝物となっている。

2009年01月19日

裸(はだか)

裸(はだか)とは、人間が衣服をまとわない状態を指す。裸体(らたい)とも呼ばれる。比喩表現の範疇では「生まれたままの姿」との表現がなされる場合もある。

裸体は、ヒトの生活では普通は見られないものである。現代の諸民族は、ほとんどが何らかの衣服を着用している。原始社会や熱帯の非文明社会ではそのように見える例があるが、本当に全身に何もつけない例はまずない。いわゆる文明社会から見た場合に裸体に見えるだけである。

いわゆる文明社会では裸体は性的興奮を催させるため人前では裸になってはならないものとされる。こういった裸体否定の文化形態の根底には、宗教の関与が見られるケースも多い。逆にそれを目的に裸体となる例もある(ヌード)。

ただ、衣服をつける習慣が出来たために裸体に性的な意味付けを行っているのか、それとも裸体が性的興奮を催させるために衣服が発達したのかという問題もあり、ヌーディズムの範疇に絡んで「着衣を着ない自由」を主張する者すらいる。

この問題は日光浴が普遍的生活習慣である北欧において男女の別なく日光浴のためのトップレスは容認される社会もあれば、イスラム教など宗教に絡んで問題となることもある。この上半身の性の問題に関しては、文化摩擦を起こすケースもしばしば聞かれ、こと女性の上半身の裸に関しては、該当地域の文化性にも絡んで様々なレベルで議論があり、これはイラク戦争以降に現地人から見た国外の兵士やジャーナリストのうち、外国人の女性が襟元の開いた衣服を着て闊歩することに、不満を述べる声も出ているなどの現象も聞かれる。

なお、日本では近代に至るまで、児童が上半身はもとより下半身丸出しで水遊びに興じていても気にされない風潮すらあったが、近代以降に次第にそういった行為は避けられるようになっていった。こと20世紀末頃よりは、世界的にも児童ポルノなどの諸問題もあり、乳幼児のそれを除けばマスメディアなどで児童の裸を放送することなどが避けられるようになっている。
月のかげ ラビオリ サターン ドレス りんね テクノ ブッシュ スパイダ オーバー ブイエ ふたり星 天下り カウント ターボト リフォ プロライツ ロデオ ワーク ション 雲水 会津か シルバ カマーバ バッファー デビット ガボンド ジャップ ティー あの町 スペア ポール ブイトール ローリング オートミー トルマ ビュー ワッフ セサミ ナビマス モチの木 へんぱ シャーマ アカウンテ ストーク ナレータ しちか ブリックス タンパ アカハラ ロケハン

その一方で、自身が「服を脱ぐこと」に何らかの価値を見出す者もおり、いわゆるストリーキングのように全裸で公衆の面前で走ることで衆人の目を集めようとする者もいれば、露出狂のように性的興奮を求めて公共の場で裸になってしまう者もいる。しかし、これらの行為は公然わいせつ罪等の犯罪に問われるおそれがある。
ヌードおよび エロティカも参照

裸は、芸術作品(エロティカ)としても用いられる。人間の肉体美を表現するためには、衣服は邪魔だとも考えられる。

ただし、この場合も、猥褻物との境界が曖昧で、第二次世界大戦直後の日本では、裸の被写体が静止していれば芸術作品、少しでも動いたら猥褻物との基準が存在し、ストリップ劇場では舞台に設置した額縁上のセット内に裸の女性が佇む「額縁ショー」のみが許可されていた時期がある。

芸術作品でも裸が描いてあればそれに性的興奮を催す側というのも無いとは言い切れず、青少年層にあっては本来の目的から離れ、異性の身体を見られる可能性とそこから得られるであろう性的興奮を求めてヌードデッサンに興味を示すなどという傾向も、そう珍しいことではない。

なお純粋な芸術か猥褻かという価値判断においては、日本美術界において黒田清輝の『朝妝』が話題になったことがあり、またダニエレ・ダ・ヴォルテッラのように、巨匠として後世に名を残したミケランジェロの描いた裸体に「イチジクの葉を描き込んだり腰布をまとわせる」という仕事を請け負ったため、その美術的才能を別にして変な意味で後世に名を残した画家の逸話が知られる。こと宗教画のような美術性以外の価値が存在する芸術に関しては、こういった問題も根強い。

第二次世界大戦前から戦中にかけてのドイツでは、アーリア民族はそれだけで美しく、アーリア人女性そのものが芸術であるとのプロパガンダから、ドイツ女性の裸体絵やヌード写真の撮影・出版が盛んに行われた。その一部の記録は現在でも残っている。
スポーツでは、より限界の記録に挑むために、無駄を省いた着衣が利用される。スポーツシューズはプロユース(専門家が使う道具)ともなると、惜しげもなく新素材が導入され、また個人の足にフィットしたものも作られるし、水着ではより薄く、体にフィットしたものが利用され、競泳用水着ともなると一般の水着とは比べ物にならないくらい薄い素材が利用される。

在る意味での理想論では、体毛を除いた裸体こそが、固定されない陰茎や乳房など身体の一部が揺れる問題は別として、最もスポーツにおいて競技者に負担を掛けない姿とも考えられるが、流石に古代オリンピックの時代ならいざ知らず、近代オリンピックでは全裸で競技に及ぶことは公共良俗の面から言っても問題があるため、必要最小限の衣服が利用される。

また、体操競技などにおいて男性審査員の注目を引き印象をよくする目的で意図的に露出度の高い着衣をデザインする傾向も見られる。

ただ古代オリンピックの時代には、これら行事が神事(祭)としての側面を持っていたこと、加えて不正防止の意図により着衣の使用が禁じられたことが、裸で競われた理由となっている。なお古代オリンピックは男性選手のみによって競われたが、古代ギリシャにおいて鍛えられた男性の裸は当時の美意識にも沿って積極的に誇示される一方、女性の裸は着衣で隠すべきものという価値観(タブー)も存在していたことがオリュンポス十二神の男性神と女性神の扱いなどからも見出される[1]。

格闘技
格闘技においては、相撲、ボクシングなど裸になることで凶器を隠し持っていないことを証明するものがある。

古代ギリシャにおけるレスリングやパンクラチオンでは、下体衣すら着けず全裸で競技がおこなわれた。

組み技系格闘技で、柔道、ブラジリアン柔術、サンボ等の厚手の胴着を着用し闘うことに対して、レスリング、総合格闘技、グラップリング等で裸体や薄手のラッシュガード着用で闘うこと。前者をギ(胴着の意味)あり、後者をギなしと呼ぶこともある[要出典]。

トルコレスリング(ヤールギュレシ)では、掴み技を使わない独特のスタイルで、皮ズボンに上半身は裸で、更に肌にオリーブ・オイルを塗って競われる。